友人との会話の中で興味深いトピックを得たので、忘れないうちに考察をまとめておく。
自分とは何か
曰く、他人の興味や関心に引っ張られて構成されている自分は、自分ではないのでは?というふとした疑問。
特筆して趣味があるかと言われれば無くもないが、これといって興味をそそられるモノも無い。年を重ねるごとに物事への関心は薄れるばかり。いざ取り組んだ事も結局は自分発信ではなく、他人との関わりの中できっかけを得たに過ぎない、と。
いやいや、人間一人では生きていけないのだから、きっかけがどのような形であろうと気にする必要は無い、という至極つまらない解を導いても良かったのだけども、帰りの電車の中でもう少し深掘ってみることにした。
その日、その時の解
自身の経験から、その場では「パートナーを見つける」ことを主な解とした。理由は以下の通り。
今の時代、自分自身「だけ」が合理的に生きていくことを目的にした場合、正直あまり難易度は高くない。
朝起きて、必要最低限の金を稼ぎ、夜に眠くなれば寝る。
合理性を追い求めすぎると、人間は「暇」になる。
というのも、合理的な状態を実現するために必要な時間が、テクノロジーの発達でこれ以上無いほどに圧縮されているから。
狩猟採集の時代には無かったこの「余白」の過ごし方は、当然ながら今の人間の脳にあまり刻まれていない。
大したイレギュラーも無く、予測可能な世界というのが、合理性を追求した先にあるものだと思う。
その点パートナーと共に歩むというのは一見、とてつもなく非合理的に感じるかもしれない。
突然何を言い出すかと思えば、
「ディズニーランドに行きたい」
「スタバの新作を飲みたい」
「ああそういえばこの前気になった服がこの店に売ってるんだった」
といったイレギュラーの連続。
趣味嗜好を全く同じくするわけでもないし、不満を抱えることもあるかもしれない。
ただ、「合理性がもたらした余白」の過ごし方を互いに教え合うことはできているし、互いの余白に干渉するくらいがちょうど良いんじゃないかな、ということ。
余白の中にある意識配分
いきなりだけども、例えば仕事や勉強で半端ないほど忙しく体力的にも疲れている時に、それと全く関係のない事を考えられるだろうか。
大半は、そんな余裕無えわ!になると思う。
そう、結局のところ思考というのは、余白の中にある意識が生み出している。
この意識について、超大まかに「理性」と「本能」の二軸で捉えてみたいと思う。
理性と本能が意識の中に共存しながらも相反するものだ、とした時、
本能から見た理性とは「宗教・悟り」、理性から見た本能は「狂気」に近いと考えている。
まあ表面的な言葉遊びだと片付けるのは簡単なので、もう少し続ける。
理性こそ人間にとって固有の働きなのだと、かつてアリストテレスは説いた(厳密にはちょっと違う)。
ただし本能や感情を消し去りなさいと主張しているわけではなく、結局のところバランスが重要で、理性によってそのバランスを導き出すことが大事なんすよ、という内容に落ち着いている。
バランスが重要、というところには共感できる。
本能だけに従えば狂気の獣になってしまうし、理性だけ突き詰めると悟りを開いた菩薩になってしまう。
「合理性」から抜け出す
話を戻そう。
合理性というのは人間の理性によって形作られているから、その結果生まれた余白の中では「本能・狂気」に従って行動することが重要だと思う。
余白の中までも理性で埋めてしまってはバランスを取るのが難しいし、本能のままに合理性は追求できない。
先ほど紹介したパートナーと共に歩むという選択は、理性だけではなく、本能や狂気という観点から見てもバランスが取りやすい。
他にもこれまで触れてこなかった何かに触れてみる、というのも良い選択だと思う。
突然山に登ってみる、知らない店にふらっと入る、仕事に関係ない資格の勉強をする、とかね。
合理性から抜け出した時に、初めて納得のいく自己表現ができる。